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 「安全姿勢」

1995年、夫婦で北京に留学中だった私たちは中国の正月休暇を利用して司馬遷の墓がある韓城という農村をたずねる計画をたてました。

北京から飛行機で峡西省の延安へ飛び、バスに乗り継いで8時間という行程です。

北京−延安便は毎週木曜日の週に1便。

当時は、正月の帰省に飛行機を利用する客が増えてきたころでしたが、延安行きの切符は、比較的貧しい地域へ向かう便のせいか、週に1便という限られた条件ながら、休暇前ぎりぎりのかけこみでも手に入れることができました。

出発当日、寮のおばちゃんたちに見送られながら大学の留学生寮をあとにし、北京空港へ向かいました。

搭乗時刻が近づくにつれ、出発ロビーに乗客が集まり始めると、同じ飛行機に乗る者同士、だんだん面子が知れてきます。
延安に到着したら、どのバスに乗ればよいなどの情報が交わされるようになります。

延安まではほんの2時間程度のフライトですが、初めて乗る興奮からか、早目に空港入りしたために待ち時刻がそれ以上の客が少なくありません。
その間、カップラーメンや魚肉ソーセージ、ひまわりの種などを口にして時間をつぶしているしかないのですが、時間があれば口を動かしている彼らが去ったあとには、雑食性小動物の小屋に落ちているようなゴミがそこここに残ります。

中国の飛行場や列車、長距離バスの駅には、給湯室が客用に開放されていて、インスタントコーヒーの空き瓶であつらえた蓋付きカップとお茶っ葉を携帯していれば飲み物に不自由しないようなシステムが全国的に行き渡っています。

客らは搭乗の案内があるととたんに、飲みかけのお茶の入った瓶に蓋をして立ち上がり、出発ゲートで待機しているバスに我先に乗り込みました。

バスがいろいろな航空会社の飛行機の合間を縫ってしばらく走ってから止ると、そこには、小さなプロペラ機が我々を待っていました。

自分たちが乗る飛行機を目の前にした乗客たちは、「小さい」と口々につぶやいています。

振り返ると隣にとまっていたジャンボ機をバックにピースで写真を撮っている人がいて、田舎に帰って自分が乗った飛行機の写真を披露するときのことを考えて、大きい方の飛行機を写真に撮って土産にするようです。

中国では、なんでも、大きいことはよいことです。

バスを降りると次はいよいよ憧れのタラップです。
途中で立ち止まっては、ここでも写真を撮る者がいます。
席は指定なのですが、狭い通路の押し合いへし合いはやめられません。
これをやってこそ初めて、乗り物に乗った気がするのでしょう。

飛行機はシンプルな作りで、タラップを上りきったところのすぐ右手に積み荷が見え、左手は奥に向かって座席が並んでいます。
椅子は、飛行機には不向きではないかと思える、映画館のシートのような折畳式でした。

左右二列ずつの合計50席弱の機内は、飛行機というよりもバスの車内の光景を思わせます。
初めて飛行機に乗ったと思われる人たちははしゃいで写真を撮りまくっています。

そうこうしているうちに、出発予定時刻を過ぎたころ、一人の空港職員がトランシーバーを片手に乗り込んできて、浮かれている乗客に向かってアナウンスを始めました。

「この飛行機は150kgの重量オーバーのため飛べません。どなたか二人が降りてくれさえすれば、他の乗客のみなさんがすぐ出発できます。どうかご協力をお願いします。」

私たち夫婦は、目を見合わせました。
「なんてことだ。」

そして、機内の人たちの表情から反応を伺おうと見回すと、なんと乗客全員が、自分の前の座席の背もたれに隠れるようにこうべを垂れているではありませんか。

安全姿勢です。

トランシーバーさんは、後部席から前方に向かって説得のためオウムのように同じセリフを繰り返しています。

客のほとんどは安全姿勢を解きません。
その背中からは、聞こえないフリを決め込んだ覚悟が発散されています。

とやかくするうちに、操縦席からパイロットさんが出てきました。
「いつになったら飛べんるんだよ」とぶつぶつ言いながら私たちの横を通り抜けてトイレへ入ると、しばらくしてから出てきて後部席にどっかとあまった座席に腰を下ろし、たばこを吸い始めました。

スチュワーデスは、爪の垢をほじりながら、冗談まじりに近くの客に「あんた、降りてくれない?」と声をかけています。

「誰かふたりが降りさえすれば。。。」

私たち二人の目に、無言の了解が走りました。

降りよう。

さもないと、何時間でも安全姿勢を続けている人たちと一緒に、飛ぶはずのない飛行機に乗っていることになりかねません。

我々二人が降りたところで、荷物を含んでも150kgに満たないことは明らかですが、この便には、とにかく「ふたり」が降りなければならない事情が発生したわけです。

名乗りを上げた私たちは、そこで始めて外人がいたことを知った職員たちに、お礼を言われながら、30分ほど前に登ってきたばかりのタラップを降りました。

背後では、「みなさーん、親切な日本人が二人降りてくれましたのでもうすぐ飛びますよぉ。」と、トランシーバーさんの声が、安全姿勢を解くおまじないを唱えていました。

航空会社から親切な日本人へのご褒美は、次週便の座席の確保と北京−延安片道運賃無料の条件でした。

一週間の旅に発ったはずの私たちを数時間後にびっくり顔で迎えた寮のおばちゃんたちの感想は、

「飛行機にタダで乗れるようになったんだから、あんたたち、そりゃラッキーだよ。」。




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